2014年 第6回かながわ新聞感想文コンクール

中学2年生の部 入選

「悔しい」を力に
神奈川県立相模原中等教育学校
島津 美沙

 「ああ、また失敗しちゃったな。悔しい。」私は部活動であるハンドボールのプレイ中に失敗すると、必ずそう思った。そして、泣いた。悔しいと思うと泣いて、また悔しいと思うとまた泣いた。いくら、「次こそはがんばろう。」と張り切っても、空回りして結局は泣く。そうして、私はいつからか、「悔しい」と思うことが怖くなり、自分ができなさそうなことは極力避けるようになってしまった。しかし、それは間違っていた。そう気づかせてくれたのは、8月8日の朝刊の、1面の左下にあったある記事だった。それは大して目立つ記事では無かったが、真っ先に目に入った。
 二十年前から「天才少女」として注目を集めていた、卓球の福原愛選手。三歳のころからラケットを握り、五歳十カ月にして全日本選手権バンビの部で優勝した、とても有名な選手だ。けれど、いつも優勝という訳ではない。どんなに上手な選手でも、幾度もの負けを経験している。二〇〇四年のアテネオリンピックでは、女子ダブルス予選敗退、二〇〇七年のビッグトーナメントでは一回戦敗退、二〇〇九年の世界選手権では二回戦敗退。悔しい思いをした福原選手は、強くなるために生活を変えた。そして二〇〇八年の北京オリンピック。順調に勝ち進み、三位決定戦までのぼりつめた。けれど、韓国に敗れ、メダルを逃した。福原選手はさらに悔しい思いをしたが、私とは違い、何も避けることなくまた練習をした。つらい時も「悔しさ」をエネルギーにして、努力をし続けた。その結果、今年のロンドンオリンピックで、ついにメダルを獲得したのだ。福原選手は「悔しい」という思いを放っておかないで、自分の「力」に変えて、何年間も努力して、やっと「オリンピックでメダルを獲る。」という目標を達成することができたのだ。
 私はどうだろうか。「悔しい」と思うのがいやで、失敗するのが怖くて、自分のできる範囲内ですべてを終わらせようとして、すぐに「もうできない。」と決めつけて……最低なものしかでてこない。マイナスにもプラスにもいこうとせず、ずっとゼロで立ち止まることを求めている。私は思った、「本当にこのままでいいのだろうか。このままでハンドボールを続けていくことは、できるだろうか。」と。もちろん、答えはすぐに出た。「私は変わらなくてはいけない。福原選手のように強くなるために、悔しさやつらさを自分のエネルギーにして一歩ずつ前に進む。そして、いつかは自分がみんなや後輩を引っ張っていく存在になる。」
 だから、私はこれからこの目標を達成するために、さまざまな努力をしなければいけない。その努力がどんなにつらく、苦しくても。けれど、今の私なら大丈夫だと思う。なぜなら、あの有名な福原愛選手から学んだことだからだ。決して忘れることは無いだろう。
 みなさんはどうだろうか。昔の私みたいに「悔しい」ことを避けてはいないだろうか。心の中だけでいいから、少し考えてみてもらいたい。もし、何か思い当たることがあるならば、自分がいやだと思うものを自分のためになるように、変化させる努力をしてみてほしい。きっと役に立つはずだ。私はそうあの記事から学んだ。

課題1(朝日新聞 8月8日付)


「いじめ」という表記
神奈川県立相模原中等教育学校
長弓 拓矢

 「犯罪」と聞くと何を思い浮かべますか? やってしまうと刑務所や少年院などに入ってしまうもの、とイメージすると思います。では「いじめ」と聞くとどうでしょう。学校で起きて、見つかると先生に怒られるだけのもの、と考えるのではないでしょうか? いわゆる、「犯罪」は警察の世話になり、「いじめ」はそうならないという違いがあり、「いじめ」は軽い過ちだと私達は思ってしまいがちです。私はその事に危機感を持ちます。
 この記事では、大津市教育委員会も学校も記者も「いじめ」という表記を用いています。これはおかしいのではないでしょうか。自殺した生徒は、たびたび殴られてあざを作っていた、お金をとられていた、死んだ蜂を食べさせられた、窓から外へと向けて上半身を反り返らせる姿勢を取らされ自殺の練習をさせられていたという証言がこの新聞にも他紙にも載っています。
 事実とすれば、暴行、脅迫、強要、強盗、重過失致死罪にあたります。見過ごした教師の中にはケンカだと思ったと証言している者もいます。しかしケンカというのは双方に暴力を振るいたい意思がある場合の名称です。一対多で一方的に殴られていることをケンカと言いません。これはいじめでもケンカでもなくて明確に犯罪です。
 国家の一番大事な役割は、国民を他人の暴力から守ることです。幸いなことに、学校以外の世界では、他人が私を殴り、お金を無理やり奪えば、この他人は犯罪者です。警察は犯人を探してくれるし、犯人が特定されれば、逮捕してくれ、私を守ってくれます。
 たまたまでなくあざをつくるほど殴られれば、学校以外では立派な犯罪です。なぜ学校では、認知されないのでしょう。教育長も校長も担任も知っていたが、犯罪として処理するのが嫌だったのだと思います。中学生でも不良は怖いです。大津市の教育長や校長にそんな勇気はないでしょう。いや、もし私が教育長でも無理かもしれません。なぜなら、少年法という壁が立ちはだかるからです。この法により今回の加害者は少年院という生温い施設でろくに反省もせずに退院後の時に復讐をしてくるかもしれないのです。
 そこで私から提案したいことがあります。暴力をいじめと呼ぶのをやめましょう。ひらがな文字が醸し出す「ゆるふわ感」と、集団でなぶり殺しにする、自殺の練習をさせる、クラスみんなで葬式ごっこをする、体操着に尿をかけるなど暴力的内容との間にギャップがありすぎます。
 名前は重要です。ある行為をなんと呼ぶかで人々の認識が変わり、対応が変わります。かつて「しつけ」と呼ばれた行為は虐待と名を改めさせられました。「上司のおたわむれ」とぼんやり捉えられていた行為は「セクシュアル・ハラスメント」に、「イッキ飲みをさせる」としか表現のしようがなかった行為は「アルコール・ハラスメント」という名を与えられました。そして行政による防止啓発や、学校や職場での防止教育がなされるなどしています。場合によっては警察が動くこともありました。
 いじめを例えばスクール・バイオレンスなどと呼んではどうでしょう。英語圏にすでにある言葉です。いじめを暴力と名付けることで、いじめている側は、「自分がやっていることは犯罪なんだ。」と気付くことが可能です。
 私が言いたいことはただ一つ、「いじめの呼び方をスクール・バイオレンスにしてほしい。」です。この作文が入賞すれば、政府の方が呼び方を変えてくれるかもしれませんが、入賞しなくとも審査員の方々がこの考えを世に広めてくれることを強く願っております。

課題1(朝日中学生ウイークリー 7月15日付)


よろこびが伝わってきた
神奈川県立相模原中等教育学校
釣 悠希歩

 私がこの記事を読んでまず伝わってきたのは、三十歳代前半で初めての子供を産んだ女性の心からのよろこびです。
 この女性は、過去に二度の死産と一度の流産を経験しているそうです。私は子供だからそれがどんなに悲しくて、つらいかって事は分かりません。そして、産まれてくるはずだった子供の事をどう思っていたのかも分かりません。でも、この記事を読むと、一回一回の妊娠へのよろこび、子供がほしくてどんなに努力したのか、流産や死産してしまったときのつらさ、四回目でやっと産む事ができたよろこびが伝わってきました。もちろん、本人やその家族や周りの人と同じように、よろこんだり悲しんだりすることはできません。でも、この記事を読んで、この女性や周りの人のよろこびや悲しみが少しでも伝わって来た人はたくさんいるのではないでしょうか。私も、その中の一人だと思っています。そして、そのような人の存在は、この女性や周りの人にとって大切なものになると思います。
 私のお母さんは、二人の子供を産みました。私と、私の弟です。でも、妊娠した回数は四回です。そのうち二回は私と弟ですが、あとの二回は産むことができませんでした。一人は、もう性別まで分かっていたそうです。医師によると男の子だったそうです。もう一人は、性別も分からない段階だったそうです。でも、一回だけ夢にでてきた時は男の子に見えたと祖母は言っていました。夢の事は、信じられないと思っている人がいるかもしれませんが、私は信じています。この話は、お母さんも祖母も一度しか話した事がありません。でもそのときに、「あなたは四人兄弟でお兄ちゃんと弟がもう一人いるんだよ。だから二人の分までしっかり生きてね。」と言われた事を、しっかりと覚えています。だから、毎日を精一杯生きていこうと思います。
 お母さんの事もあったので、私は、他の人よりはこの女性と周りの人の気持ちが伝わってきたはずだと思います。でも、お母さんは、「生まれてくる事ができなかった二人の事は絶対に忘れられない。忘れてはいけない。」と言っていたように、きっとこの女性も生まれてくることができなかった三人の事は忘れる事はできないと思います。だから、生まれてきてくれた男の子と、これまで支えてきてくれた周りの人と一緒に、つらかった事や悲しかった事も心のすみにおいて、幸せに暮らしていってほしいと思います。そして、男の子が元気に育ってくれたら、この事を話してあげてほしいです。この事を聞いたらきっと、毎日がもっと楽しくなると思います。

課題1(読売新聞 7月23日付)


「僕は高校生、時々銃を持つ」を読んで
神奈川県立相模原中等教育学校
中山 真那

 「死ぬぞ!」の文字に一瞬ぞっとした。彼らにとってはこれが日常なのだろうか。「いつ死んでもおかしくない。」と語る高校生に自分にはない強い覚悟を感じた。
 高校生というと、私の学校にもいる先輩の年齢です。毎日私達が勉強したり、クラシックギターを弾いている時に、銃を担いで草むらだらけの野営訓練場で走っている。そう思うと、なんだかもう全く違う世界に見えてきた。
 陸上自衛隊高等工科学校の一日のスケジュールを見て驚いた。六時の起床から二十三時の消灯までびっしりだ。わずかな自由時間さえも洗濯などで潰れてしまうという。身の回りのことは自分ですることになっているのでアイロンがけから掃除まで全て自分自身だ。こうなると趣味とか自分の好きなこととか出来るのだろうか。気になって調べてみた。すると、意外なことに、皆ドラクエだとかモンハンだとかの話をしている。やっぱり普通の男子高校生のような生活もしているのかと思いつつ、でもけじめはしっかり持っているだろうなと少し羨ましくなった。自分も毎朝六時にラッパで起きて乾布摩擦をすればできるかなと考えたがすぐやめた。十中八九、私には無理だ。
 平和な国、日本。とよく言われている。つくづくそう思う。世界の中で戦争がないという素晴らしい国はそうそうない。それでも「万が一」という可能性を考えなくてはいけない世の中にちょっとがっかりする。アメリカや北朝鮮は何故に攻撃や制圧をするのだろう。どんな理由も「平和」の前ではただの言い訳になると思う。一つしかない地球を何百回も爆破させるほどの核爆弾が何になると思っているのだろう。と同時にそれに対しての各国の対応もどう見ても不足である。私はいまできることなら国連にのりこんで大声で叫んでやりたい。「核を捨てさせてからが世界平和への一歩だ。」確かに、核禁止条約などで米、ロシア、中国、インド、北朝鮮などに呼びかけはしてきた。でも核爆弾なのだから忠告なんてものじゃなく、即刻排除すべきだ。周りがちょっと甘いと思う。もっと強く言って必ずやめさせるべきである。
 記事の中で、梅木君は「銃」という武器について「人を殺すわけじゃない。あくまでも訓練」と割り切って言っている。自分は到底そう思うことができない。「銃」というと殺すイメージしかなく、実弾なしとはいえ、それを持っていると想像しただけで怖くなってしまう。もし第三次世界大戦が起こったら? 梅木君達が最前線で戦うことになったら? どのような覚悟がいるのか――私には到底、想像も及ばない。高校生でありながら自衛隊員である。このような精神的な負担をどうするのかと心配にさえなってくる。親への連絡や部活に打ち込むことはできるものの心身ともにハードな生活を続けている。驚くのはそんな学校の入試倍率が十五倍だという。それほどの人達はあそこに〝居場所〟を求めてやってくるのだ。
 自分の居場所を常に考えて今を生きている梅木君。自衛隊という、心構え、面構えで今日も、銃を握っている高校生たちがやがてこの日本という国の将来を担う大人の一員になっていく。
 私はこうした同年代もいるのだと知り、自分の居場所探しをこれからしっかり周りを見すえていきたいと思う。

課題1(朝日新聞 7月25日付)


ジョージの死から学び考える
鎌倉市立大船中学校
久野 綺音

 南米エクアドルにある、ガラパゴスのピンタ島に唯一生き残っていたガラパゴスゾウガメが、死んでしまいました。名前をロンサム(孤独な)・ジョージというそうです。かつて、ガラパゴス諸島には、島ごとに少しずつ異なった甲羅や習性をもったゾウガメが生息していましたが、すでに絶滅してしまった種も多く、今回のジョージの死により、ピンタゾウガメも絶滅種の仲間入りをしました。
 現在地球には約四万七千種の生物がいますが、同じような絶滅危惧種は一万七千以上もいるそうです。ゾウガメを絶滅に追いやったのは、人間による乱獲や生態系の破壊です。食用や油を採るために捕獲されたり、豚やヤギといった外来種の過放牧により、エサである草地が食い荒らされてしまったためです。
 外国だけでなく、日本でも問題となっている動物がいます。トキです。約八十年前は百羽いましたが、絶滅してしまいました。これも人間が害虫を殺すために農薬などを使用し、田んぼが汚染されたり、巣をつくる森林がなくなったり、エサが減ったりしたことが原因です。
 私は、この記事を読んで、自分たち人間のせいで滅んでしまった生物がいることを知り、とてもショックでした。このように見てみると、世界中では、もっと多くの生物が姿を消しつつあることがわかります。
 しかし、実際私たちは、ジョージやトキのことをニュースで見ても、見るだけで、何も行動していません。見て見ぬふりをしています。これでは、何の役にも立ちません。その生き物が絶滅した理由を考えることで、どのような取り組みをすれば環境が良くなるかを、もっと真剣に考えなければいけないと思います。
 私の家の近くの鎌倉中央公園では、ホタルの保護活動をしています。ホタルを見る時に注意しなければならないことは「ライトを消す、写真を撮らない、騒がない」だと教えてもらいました。私の、こんなに小さな行動でも、一匹のホタルを守ることができたかもしれません。
 私たち中学生は、はやりによって、まだ使えるものがあっても買ってしまったり、友だちが可愛いものを持っていると欲しくなったりしてしまいます。また、好きなキャラクターのグッズが新発売されると、つい買ってしまいます。一見、生き物の絶滅とは何の関係もないようですが、このような行動が、環境破壊をまねき、何かの生き物を絶滅に追いやったかもしれません。これからは、ノートを最後までていねいに使うようにしたり、欲しいものがあっても買わないようにするなど、できることから注意していきたいです。
 私たちは、どこでまちがえて、生き物が絶滅してしまうような地球に変えてしまったのでしょうか。私は、二度と同じ失敗をくり返さないために、ジョージやトキがなぜ絶滅したのかをよく考え、理解したいと思います。そうすることで、自然や生き物を守る方法が見つかると思います。そして、それらを未来へと引き継いでいくことが、必要だと思います。

課題1(神奈川新聞 6月26日付)


ボルトは天才じゃ無い
鎌倉市立第二中学校
熊倉 大介

 ぼくはこの記事を読むまでボルトという選手は天才だと思っていた。あの走りは天性のものであり、生まれたときには既にオリンピックで頂点に立つことが決まっていたのだと。
 それはただの思い込みだった。彼はオリンピックではなんだか軽薄な態度で振る舞っているが、本当は血のにじむような努力を重ねてオリンピック二大会連続百メートル、二百メートル制覇という偉業を成し遂げていた。
 才能ということもあるだろう。だが、あの驚異的な走りは才能以上に、背骨が曲がってしまうという病気に打ち勝った彼のすさまじい努力と根性によるものであり、ボルトという選手は立派な努力家であるとぼくは思う。
 もしぼくだったら、病気を抱えているのにわざわざそれを克服してまでさらなる高みを目指そうとは思わないだろう。それどころか、途中であきらめて逃げ出してしまうかもしれない。
 しかし、ボルトはあきらめず、欠点であるはずの病気を走るための力へと変えてしまった。そのためにどれだけ苦しい思いをして、つらい訓練にたえたかと思うとゾッとする。きっとそれはぼくの想像をはるかに越えたものだろう。実際にこの間、彼は取材されたテレビ番組で、「人は俺が簡単に走っていると言うが、毎日の練習は死ぬほどつらい」と語っていた。
 その練習を乗り越えた彼はオリンピック二大会連続二冠を達成し、「俺は伝説だ!俺の時代だ!」と言い切った。
 ぼくはそんな彼のことをすごくカッコイイと思う。彼は世界へ向けて「あきらめずに努力しつづければ夢は叶う」ということを証明してみせたようだ。記事の写真はまるで、「伝説になる」という目標を達成したボルトが「俺はやってやったぞー! お前らも俺みたいに努力を続けて夢を叶えてみろ!」と世界中の人々へ叫んでいるように見える。
 そうやって彼のように、努力を重ね大きな目標を達成したら、きっとものすごく嬉しいだろう。その喜びはそれまでの苦しみがあってこそのものだと思う。
 必ずしも、その喜びはオリンピックという大舞台でなくても、身近で個人的なことでも、自分なりに目標をたててそれに向かって日々努力し達成出来たなら、味わえるものだと思う。
 ボルト以外にも多くの人がその喜びを勝ち取っているだろう。彼はその中の代表として鍛え抜いたその走りで世界中へ感動を与えてくれたのだと思う。
 ぼくは現在特に夢や目標といったものは無いが、いつか何かで世界一になってボルトのように「俺は伝説だ!」なんて言ってみたいものだ。
 夏休みに入ってからは退屈と暑さで、家にこもってダラダラとしていることが多かったが、この記事を読んだらなんだか元気をもらった気がする。まずは、ドッサリと溜まった宿題を終わらせなければ!

課題1(朝日新聞 8月10日付)

問い合わせ先
神奈川新聞社
かながわ「新聞感想文コンクール」事務局
電話:045-227-0707

(C)2010 Kanagawa simbun All Rights Reserved.

当WEBサイトの記事、画像などの無断転載を禁じます。すべての著作権は神奈川新聞社に帰属します。