2014年 第6回かながわ新聞感想文コンクール

中学2年生の部 最優秀賞

原爆の短歌
湘南白百合学園中学校
杉原 佐彩

 私は記事の冒頭の短歌を声に出して読み、目をとじた。しばらくすると私の心に、悲しみとも驚きとも違う何かが、鐘の音のようにゆっくりと広がっていった。今の日本の夏と同じように、あの日―六十八年前の八月九日の長崎もセミが鳴いていたのだ。いつも通りの一日になるはずだったのだ。原爆さえ落ちなければ。冒頭の短歌には、三浦さんの原爆への思いがしっかりと込められていた。
 三浦さんの被爆体験を読んだ時は胸がひどく痛んだ。窓の外に閃光が走ったあの瞬間、日常というものが全てふき飛ばされてしまったのだ。長崎の美しい町並みも人々も、あの朝鳴いていたセミたちも。被害は、平和な今の日本を生きる私たちの想像をはるかに超えるものであったに違いない。でも新聞は真実を伝えなかった。二番目の短歌では、そのことに対する嘆きがよく伝わってくる。
 終戦後、三浦さんは英語を学んだ。ろうそくの火を使って。勉強に没頭できるのがうれしかったという三浦さんの話を読んで、私は驚いた。今の日本では、勉強できることはあたりまえのことであり、ましてやもっと勉強しなさいと言われることがあるくらいだからだ。到底勉強ができる環境を感謝するような気持ちにはなれない。でも、戦争中の時のことを心に留めておくだけで、勉強に対しての態度が少しは変わると思う。そして、三浦さんは終戦後、自分の頭で考えて判断できる人間になろうと決めた。現代の様々な教育の場でもよく聞く言葉だ。しかし、この二つは少し意味が異なっていると思う。戦時下では政府の命令は絶対だった。そんな状況だったので、付和雷同であることが多かった。よって終戦後間もない頃は、自分の考えをしっかりと持ち、大切にする人という意味だったと思う。一方、現代では考えが強制されることもなく、自由に意見を持つことができるため、前のものに自分の考えを表現するという意味が加わり、内容が深くなったように感じる。その時代によって、言葉の意味や見方が変わることがよくわかる例の一つだ。
 原爆の影響でがんを発症した後、三浦さんは原爆のことを短歌にし始めた。三つ目の短歌は、あの時生かされたこの命を最後まで大切にしようという、素晴らしい思いが込もったものだと思う。私は、三浦さんの、手術を何回しても心の芯を失わない凛とした強さに感動した。
 今、三浦さんは毎年高校生に講演を行い、自分が十六歳の時に経験した悲惨な出来事を伝えている。「自分の国の歴史から目を背けず、本物の国際人になってほしい。」という言葉を読んだ時、三浦さんの思いが真っすぐ伝わってきた。日本の歴史には思い出すのがつらいようなことがいくつもある。原爆もそのうちの一つだ。でも、それを経験して、または体験談を聞いて学んだことを、胸に留めておくことは大切だと思う。
 三浦さんが詠んだ短歌は、私たちの心に様々なことを語りかけてくる。私は心を打たれながら、絶対に原爆を風化させてはいけないと強く思った。被爆者の思いを全世界に伝え、核兵器の廃止を訴える。このように、これからの世界を考え、生かせるように努力することが、今の私たちにとって大切であり、求められていることではないだろうか。

課題(1)(朝日新聞 8月7日付)
「生かされた命 刻む短歌/語り継ぐ原爆」

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