シベリアよくりゅう者のいこつしゅう集についての、記事を読みました。わたしは、お母さんからはじめて、ひいおじいさんがシベリアよくりゅう者だったと聞きました。
わたしのひいおじいさんは、せんそうに行って、ほりょになりました。ロシア人に、「日本につれて帰る。」と言われ、トラックに乗ったら、着いた所はロシアだったそうです。
それから、ひいおじいさんは、二年間ずっと、シベリア鉄道の強せいろう働をしていました。一日一回、三こから四このジャガイモだけ、あたえられていたそうです。
みんな空ふくで、だれが大きいジャガイモを食べられるか、日本人どうしで、顔を見合わせる毎日だったと聞きました。
本当は、戦そうが終われば日本に帰れるはずなのに、ひいおじいさんは、ロシアで戦後一年以上たっても、強せいろう働をさせられていました。その間に、一しょにほりょにされていたなか間が、たくさん死んでいったと、わたしのお母さんは、何度もひいおじいさんから聞いたそうです。
記事によると、シベリアよくりゅう者は、約五十七万五千人。そのうち、死者は約五万五千人とされています。
あるし料に、そうそ父をシベリアよくりゅうでなくした大学生が、たましいを祖国へ送るために、九日間想いをこめて土をほっていたと書いてありました。
シベリアよくりゅうでなくなった、日本人のたましいが、祖国に帰こくしたいと思っていたのに、長い間放ちされていたこと。
今も三万人以上のたましいが見つけられずに、そのままロシアに、のこされたままという事を、初めて新聞記事を読んで知りました。
わたしは、たくさんのたましいが帰こくしたいと思っているのに、だれにも見つけられずに、戦後六十年以上放ちされていることに、おどろきと悲しみでいっぱいです。
わたしのひいおじいさんは、九十五さいをすぎて体が思うように動かないけれど、なくなったなか間達に会いたいと言っていたそうです。
きっと、ひいおじいさんの中でも、せんそうは終わっていないんだとわたしは、強く感じました。
この記事の中の遠どうさんが言った「せんそうはまだ終わっていない。」という言葉が、ロシアにねむるすべての人、シベリアよくりゅうの生ぞん者の人達の気持ちなんだと、わたしは思いました。
課題(1)(朝日新聞8月12日付)
「酷寒の地に眠る 友よ父よ」
ぼくは毎日、朝日小学生新聞を読んでいる。八月に入ると、一面には戦争の記事が目につく。原爆投下、学童疎開など、これらは昨年、読書感想文を書くために読んだ本や戦争経験者のおばあちゃんの話などからこわさや、おそろしさを知った。
今年は「特攻隊」という爆弾をのせた飛行機に乗り、敵の軍艦に体当たりした操縦士たちのことを知った。
特攻隊の飛行機の整備員だった柳井さんが印象に残っているのは、一人の特攻隊員の出撃前の姿だという。
「世話になったな。みんなによろしく伝えてくれ。」
と、一筋の涙を流し飛行機に乗っていったという。その人はまだまだたくさんやりたいことがあったんだろう。子どもの頃からの夢をかなえたかったと思っていたかもしれない。口には出せないが戦争になんて行きたくなかっただろう。けれど、国の命令で自分の命を捨てなければいけなかった。もしぼくだったら国の命令なんて聞かなかったかもしれない。ぼくは特攻隊員の涙にはかなえられなかった夢や、家族への思いなどのたくさんの悲しみがつまっていたと思う。
柳井さんは生き残ったことに対し、自分をせめていたという。でも特攻隊の悲惨さを語り継がなければいけないと思い、訓練飛行が行われた学校を守る活動をしているそうだ。
ぼくは柳井さんは自分をせめる必要はまったくないと思う。なぜなら特攻隊の悲惨さを語り継ぐために生き残ったからだ。柳井さんが語り継がなければ、ぼくは特攻隊員の無念を知ることはなかった。ぼくは今までは、戦争中日本に残っていた人たちの立場から戦争の悲惨さを見てきたが、この新聞記事で実際に戦地に行った人の様々な思いを知ることができた。
ぼくの誕生日は八月九日だ。長崎に原爆が投下された日だ。自分の誕生日には、毎年必ず戦争の事がとりあげられる。二度と戦争をくり返さないために、ぼくはどうしたら良いか考えるようになった。戦争経験者が高齢化して語り継ぐ人が減っていく中で、戦争を語ってくれる貴重な建物を残すという手段も大切だと思った。
ぼくたちの世代は戦争を経験していないが、戦争を二度とくり返さないために、柳井さんからのバトンをしっかり受け継ぐことがぼくたちの使命だと強く思った。
課題(1)(朝日小学生新聞 8月7日付)
「戦争の悲惨さ語り継ぐ拠点に」